「和歌山県・串本」串本大橋を渡り、トルコ記念館と樫野埼灯台へ向かう

スポンサーリンク
ツーリング
スポンサーリンク

潮岬と紀伊大島を繋ぐ「串本大橋」を渡り、「トルコ記念館」へ向かった。トルコ記念館から灯台までは遊歩道が整備されており、「トルコ軍艦遭難慰霊碑」や「ケマル・アタチュルク像」を見ながら、日本最古の石造り灯台「樫野埼灯台」まで心地よい風を感じながら歩くことができる。

串本大橋

串本大橋は、かなり前に、雑誌「OutRider」に乗っていた写真を見て「行ってみたい」と思っていた橋だが、そんなことはすっかり忘れており、突然現れたループ橋に心躍った。

この橋は、平成11年9月8日に開通した、90mのアーチ橋と、苗我島に架かる386mのループ橋で本土と紀伊大島を繋いでいる。

串本町へは何度も訪れているのにもかかわらず、なぜ気付かなかったのかと思いながら古い画像を調べてみたところ、平成20年の8月に潮岬でキャンプしたのが最後のようだ。画像を見ながら記憶を遡ると、そういえば串本大橋の入口にある交差点に見覚えがあるので、串本大橋が完成していたのに気付かず通り過ぎていたようだ。

ループ橋をグルグルと回ると次にアーチ橋が現れ、渡りきった先の「串本大橋展望台」に立ち寄ってみたが、草が伸びているだけでなく電柱が邪魔で写真撮影には向かなかない。串本大橋を見るのは道路向かいの「くしもと大橋ポケットパーク」の方が良い。

ここには、駐車スペースとトイレ、それにベンチも備えられている。橋を行き来する車が結構な勢いで走ってくるので、道路の横断には気を付けたいところだ。

トルコ記念館と樫野埼灯台

23年6月7日、巡洋艦「エルトゥールル号」が、横浜港に国賓として迎えられ、3か月滞在した後の9月14日に出港し、16日に熊野灘で台風に遭遇し樫野埼灯台下の岩礁で座礁してしまった。その際、580人余りが遭難したそうだが、地元住民の救難活動により奇跡的に69名の命が救われ、これをきっかけにトルコと旧大嶋村樫野(串本町)の友好関係が築かれたそうだ。

トルコ記念館

トルコと旧大嶋村樫野(串本町)の友好の証として建てられた、この記念館は、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的としている。入場料500円

館内には、エルトゥールル号の模型や写真などが展示されている。写真撮影可能。

事故の経緯や、イランイラク戦争中の1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明が出されたことで、イラン在住の日本人は出国を試みたが、どの飛行機も満席な上に、日本政府は航行の安全が確保できないとの理由から救援機の派遣を見送られ、残された日本人は途方に暮れている中、トルコから2機の救援機が駆け付け、日本人215名全員がイランを脱出することができたそうだ。当時、多くのトルコ人も在住していたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうだ。

トルコからの救援機の派遣について、後に駐日トルコ大使は、「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」と恩返しの気持ちからの行動だったことを明かしたそうだ。

館内の海側の壁面に窓が付いており「窓から事故現場がご覧いただけます」とあったので覗いてみると…。

丸い方の窓からは、「エルトゥールル号」が座礁した「船甲羅」に印が付けられていた。実際の風景を見ながら、事故現場に印を付けるアイデアが素晴らしい。

実は「船甲羅」が、博物館の目の前にあるという事に、この時点で初めて気が付いた。

四角い方の窓には、「エルトゥールル号」を模して座礁したイメージを再現している。

トルコ博物館を訪れた当初は、それほど時間な余裕がないので、さっと見て「樫野埼灯台」へ向かうつもりだったが、それに反して時間を掛けて楽しんでしまった。最後に屋上の展望台から「舩甲羅」を含む岩礁地帯を眺めて博物館を後にした。

トルコ軍艦遭難慰霊碑

トルコ記念館から樫野埼灯台に向かって綺麗な遊歩道を歩くと、トルコ軍艦遭難慰霊碑が現れる。綺麗に管理された慰霊碑だ。

この慰霊碑は、海難事故の翌年、明治24年3月に和歌山県知事及び、有志の義金によって墓碑と追悼碑が建立されたが、昭和4年に昭和天皇の樫野埼行幸が行われたことを知った、トルコ政府初代大統領が、慰霊碑の建立を決定し、トルコ政府の費用によって建立され、昭和12年6月3日に完成した。

ムスタファ・ケマル・アタチュルク像

ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、第一次世界大戦時に領土を分割占領された領土を開放するために立ち上がり、指導者としてこの戦争を指揮し勝利に導いたトルコ国民の偉大なる英雄であり、慰霊碑建立を決定した初代大統領でもある。

この騎馬像は、日本とトルコとの友好を深めるきっかけとなった「エルトゥールル号」海難事故から120年に当たる年に、駐日トルコ共和国大使館から串本町に寄贈されたものだが、もともとは、民間会社が運営していた「柏崎トルコ文化村」に、トルコ共和国大使館から寄贈されたものだったが、経営破綻したため、一時、柏崎市が施設や土地ごと取得した後に民間会社に譲渡したそうだが、中越沖地震で被災したため台座から取り外し、会社敷地内に保管していたそうだが、当初は野ざらし、その後はブルーシートが掛けられたものの、横倒しで放置されていたそうだ。

そして新聞に像の扱いを非難する記事が掲載されたことをきっかけに、所有する会社と柏崎市とが、協議?大揉め?の結果、駐日トルコ共和国大使館に戻されることになった様だ。その後、駐日トルコ共和国大使館からの要請で、串本町にやって来たらしい。

樫野埼灯台(かしのざきとうだい)

「樫野埼灯台」及び後ほど紹介する「樫野埼灯台旧官舎」は、共に「日本の灯台の父」とされるイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年(1870年)に建設された。

この灯台は、紀伊大島の東端にある樫野の断崖に立つ、日本最古の石造り灯台。灯台の横に螺旋階段が設けられ、灯台に上がれるようになっているが、これは、樫野埼灯台が現在も稼働している現役の灯台であることから、内部は公開できないため後で付けられたものだそうだ。灯台の周囲の石積みの塀も当時のもので150年が経過しているそうだ。

灯台の上に上がると、フレネルレンズが良く見える。

樫野埼灯台旧官舎

1970年(昭和45年)に、この灯台は自動点灯となり、灯台守が常駐する必要がなくなったのに伴い、官舎もその役目を終えることになった。

樫野埼灯台の目の前に立つ「樫野埼灯台旧官舎」は、日本最古の石造灯台官舎として平成15年に同官舎が国指定登録有形文化財に登録されている。内部の見学も可能で、入場料100円で、係員さんが丁寧に解説してくれる。内部は撮影禁止となっているので画像は無いが、使われているのは、木製の建具なのでもともとの木目があるのにもかかわらず、木目に見えるような塗装を施す「木目塗り」という技法が建具や窓枠に用いられている。平成22年に行われた改修工事では「保存を目的とした修理」として、残せる部分は保存し、傷みがひどい部分は、職人さんが当時の技法を模して塗り直したそうだ。また、昭和4年に昭和天皇の樫野埼行幸が行われた際に、この官舎に天皇陛下の部屋が設けられている。

最後に

初めて訪問した、トルコ記念館並びに樫野埼灯台だったが、非常に気持ちの良い所だった。観光客もそれほどおらず、ゆったりと見て廻る事が出来た。広い駐車場も用意されており時間を気にせず過ごすことができるおかげで、のんびりしすぎたので、急ぎ足で「日米修交記念館」と「海金剛」へ向かう事にした。

コメント