「京都・笠置/山城」木津川に架かる二本の沈下橋

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下の川橋梁と柳生街道架道橋を訪れた後、再び国道163号線に戻り月ヶ瀬方面へ走る。次に目指したのは、木津川に架かる2本の沈下橋。一つ目は下の川橋梁と柳生街道架道橋と同じく笠置町にある「潜没橋」。もう一つは南山城村の「恋路橋」を訪ねることにした。

潜没橋

地域によって違いはあるものの、水嵩があがると水の中に沈む橋の事を沈下橋や潜没橋などと呼ばれるが、笠置町の木津川に架かるこの橋は、正式名称も「潜没橋」となっている。

南側からみた潜没橋。

 京都府笠置町で木津川に架かるこの潜没橋は、1962年(昭和37年)架橋の長さ100メートル、幅2.4メートルのコンクリート造り。元々は農道だったようだが、現在では町道として飛鳥路地区へ向かう重要な役割を担っている。

訪れた際は、水量がなく国道側は橋の下に水たまりがあるのみ。

その水たまりのある部分は橋台が浮き上がってしまっており、両端に新たにコンクリートの補強が巻かれているが、下部の劣化状態を見るとそれなりに時間が経過しているようだ。

川の中央部分は、玉砂利が盛り上がっており、橋の上から河原に難なく降りる事が出来るが、流れによってこのように積み上げられるという事は、水没時にはこの玉砂利が潜没橋に容赦なく打ち付けることになるのだから痛むのも頷ける。

やはり傷みが激しいのか、順次橋脚を作り直しているようだ。

川の流れのある方も、以前の補修跡に加え橋脚部分が補強されているようだ。

潜没橋からは、下の川橋梁と同じく、2009年(平成21年)10月14日にJR西日本登録鉄道文化財に指定された木津川橋梁を望む事が出来る。この橋梁は、1897年(明治30年)に竣工されたJR 関西本線が木津川を渡る鉄橋で、石材と煉瓦で造られた橋台と橋脚が当時のまま残されている。

恋路橋

潜没橋までは、木津川沿いを走っていた国道163号線だが、川の蛇行により両者の距離が開いている区間に恋路橋は存在するので、府道82号に入り、JR大河原駅方面へ進むとすぐに見えてくる。

なんともロマンチックな名前が付けられている「恋路橋」だが、これは”愛称”である。正式名称は「南大河原潜没橋」。

京都府南山城村に架かる、この橋は、平成8年に南山城村商工会が愛称を募集し決まったそうだが、橋を渡った先にある恋愛・縁結びで知られる「恋志谷神社」にちなんで名付けられたそうだ。

初代は、丸太を並べた橋だったそうで、何度も流される流れ橋だったが、1944年(昭和19年)戦争物資を大河原駅に搬出する為に着工され、1945年(昭和20年)3月に長さ95.3メートル、幅3.6メートルの橋が完成している。使われた石材は、田山(現高山村)や南大河原(現相楽郡大河原村)の石切場から切り出された長さ4.4メートルの50センチ角の花崗岩が120本使われたそうだが、1953年(昭和28年)の「南山城水害」後、コンクリート橋となったそうだ。

しかし、1959年(昭和34年)の「伊勢湾台風」で橋の一部が欠落したそうだが、それによって架け替えたられたのか、大規模な補修が行われたのかは不明だが、その後に完成したのが、長さ95.3メートル、幅3.6メートルの現在の恋路橋である。

撮影したつもりがなぜか画像が見つからないが、国道163号線側で橋の裏側を見た際、花崗岩が使われているように見える。それが正しければ、1945年(昭和20年)3月に架けられた橋をベースに大規模な補修が行われた際に表面をコンクリートで補強及び破損部分の新設がなされたのではないかと考えられることから、基礎的な部分はかなり古いものといえそうだ。

また、それを裏付けるように、木津川の水中には、この橋に使われていたと思われる石柱が沈んでいる。

中州へ降りる階段部分に積まれている石材も、そうだと思われる。

橋脚部分を見ると鋭角なものと丸いもの、表面が花崗岩になっているものとコンクリートむき出しのものなど、形状に規則性が無く過去から現在まで改修・補修が繰り返されてきた跡が見受けられる。

以前から、古い構造物が好きだったが、ブログを通じてより深く経緯を辿るようになったこともあり、以前とは比べ物にならないぐらい、現地でいろいろな事柄に目が向くようになり、ツーリングの楽しみが倍増している反面、訪れてみたいところが増えすぎ少々困惑している。

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