次に紹介する鉄道橋を転用した「中橋」に向かう途中で、モダンな親柱が目に留まった「寄合橋(よりあいばし)」というコンクリート製の橋。後で調べてみると、「史跡 和歌山城」のページにも城下町のなごりとして紹介される歴史のある橋であった。
寄合橋は、寄合町と湊本町の間に架かる橋で、初代の木造橋は、昭和16(1941)年1月に架設されたプレストレスト・コンクリート橋に架け替えられたそうですが、江戸時代には、この橋の南側には和歌山城の西外堀があり、三ノ丸に続く湊橋御門があったようです。堀は昭和15年までに埋め立てられ、御門も取り壊されていますが、その当時は城内に入れない町人たちの迂回路として多くの通行があったようです。
西側の親柱。ここには、江戸時代には幕府や領主が決めた、御法度(ごはっと)や掟書(おきてがき)のほかに犯罪人の罪状などを通達する方法として、板に書き示した木の板札(高札場)があったそうな。
東側には、見張りの為の櫓や通行人や船舶を見張り、積み荷の検査や税の徴収などを行った番所が設けられていたことからも、交通の要所だった事が伺える。
東側の親柱
中央付近の欄干。
補修が行われており欄干より下部は色が違います。
寄合橋西側からは川面に降りる事が出来ます。どこに繋がっていませんが橋の側面や裏側から構造が観察できるので非常にありがたい。
橋を間近で見ると、補修されている部分も傷んでいました。地震の影響でしょうか。
この寄合橋が架かる一帯は「昌平河岸(しょうへいがし)」と呼ばれ、天保時代より明治初年まで和歌山文化の中心となっており、各種物産の荷揚場として大変賑わっていたそうです。
五代藩主 徳川吉宗 1713年(正徳3年)は昌平河岸の北側に、藩士の子弟に儒学の教養を授ける目的で、初めての藩立学校である「講釈所」を開きましたが、吉宗が将軍となったため衰退してしまっていたそうです。その後、学問好きで知られた十代藩主 治宝(はるとみ)は1791年(寛政3年)に講釈所から改称されていた「講堂」を改修増築した上で、「学習館」と改称し再興しています。また規則や職員制度を整備し、1836年(天保7年)さらに拡張されてれています。そして、十四代 茂承(もちつぐ)は1866(慶応2)年、若山文武場(真砂町)を拡張してそこに「学習館」を移転されています。
もともと講釈所が開かれた場所は、「湊のおやしき」と呼ばれ、ここで葛野藩主時代の吉宗が14歳から22歳までの多感な時期を城下町過ごしていた場所だそうです。この経験が学校の設立に繋がったのかもしれませんね。跡地には「世界一統」という新興宗教みたいな名前ですが、和歌山を代表する由緒ある酒造メーカーになっていますが、藩士の子弟も、この寄合橋を渡り講釈所へ通っていたようです。
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