窪田庭園をスルーし、その前で島をショートカットする事にした。せっかく島を訪れているのにもかかわらず、海沿いを走らず山の中を走るのはいささかもったいない気もするが、視界が開けており高台からの海を眺めながら走るのもなかなのものだった。
窪田庭園から山を登って行くと、交通量が少ないようで道路中央に雑草が生えだした。
進むにつれて、その量が多くなってきた。
ある程度登って行くと、一帯がみかん畑になっており農家の方がよく通る部分は道路の状態も良い。
道なりに進むと分岐が出てきた。真っすぐ進むと岡村港方面、左に進むと岡村大橋方面へ抜ける。まっすぐ進み岡村港方面へ進む。岡村大橋の方へ向かっても良かったのだが、「正月鼻 古墳公園」へ行ってみたくなったので、岡村港方面を進むことにした。
みかん畑越しに海を眺める。いたるところに農業用のモノレールが設置されていた。
これだけの急斜面での作業なので、モノレールのない時代はどうやって作業していたのだろうか?凄まじい重労働だったことだろう。
みかん畑を海に向かって下って行く。
どんどん下り、県道に出る手前で「正月鼻 古墳公園」の入口が出てきた。
岡村島の北端部の岬である正月鼻と呼ばれるようになったのは、平家の落人となった兄弟3人が岡村島、福島、大崎下島に分かれて隠れ住んでいたが、毎年正月には礼服を着てこの岬に集い盃を酌み交わしていたことに由来するそう。
中に入ると、蝶のオブジェが出てきた。岡村島では、平成元年に全国的に分布地が限られている、クロツバメシジミ、翌年には奄美大島やそれ以南で見られる、ウスイロコノマチョウが発見されたことから、マニアの間では「蝶の島」とも呼ばれているそうだ。
詩人 水上紅の詩碑。
蝶のオブジェの奥にイスやテーブルが設置されていた。イスに蝶の図柄が描かれている。
オブジェから少し上がった所に古墳がある。もともとは岬から尾根にかけて計14基(3郡)あった群集墳だが、開墾により消滅してしまっているそうだ。
残った箱形石棺5基のうち2基から5世紀初頭の人骨、緑色凝灰岩精紡錘車形石製品、鉄剣、鉄刀などが出土している。
ここにもイスとテーブルが備えられていた。
更に奥へ進むと突き当りに道が付いていたので上がらせていただいたが、ここも古墳なのかもせれない。
そのさらに奥の広場には、遊具が備え付けられている。
ここにもイスとベンチがあった。展望は竹で埋まりそうだが、伸びた竹は切られており展望が確保できるように手入れされている。
広場の奥は階段状の遊歩道になっているようだ。
「正月鼻 古墳公園」から県道177号線で岡村大橋の方へ向かった。
先程は、岡村大橋の下をくぐったが、今度は橋を渡るためにぐるっとUターンして坂を上る。すると橋の手前に「人待瀬戸展望台」が現れる。
この展望台の読みは、「ひとまち」ではなく「とまち」と読むのに少し驚いたが、岡村大橋のかかる瀬戸(狭くなっている所)を戸待瀬戸というので、読みの方が正しいことになる。
なぜこうなったかというと、この場所で人との待ち合わせなどに活用してもらいたいという気持ちを込めて「人待瀬戸」と名付けられたそうだ。
そのため縁結びについては、展望台の名称にあやかっただけの様な気もするが、愛し合うカップルには関係ないのかもしれない。
岡島大橋の途中が愛媛県と広島県の県境となっているので、それを示すプレートが設置されている。
岡村大橋の次の橋、「中の瀬戸大橋」は、停車しにくかったので橋を渡ってから撮影した。
そして次に現れたのが、とびしま海道七つ橋の中で一番規模が小さい斜張橋である「平羅橋」。橋脚が一本しかないコンクリート製の吊り橋が良い雰囲気を醸し出していた。
岡村島と大崎下島を結ぶ三つの橋を渡り、今回のツーリングでの最大の目的地である「一峰寺山展望台」を目指すが、これがなかなか一筋縄で辿り着く事が出来ず、苦労したその顛末を次の記事で紹介する。
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